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プロは褒めず

東京でSpinnin Roninの役者たちに武術を教えて参りました。
皆プロのパフォーマーでございます。

普段のクラスでは生徒らの良い所しか見ません、人間ひとえに
弱点や欠点を探し出すのは得意であります、なぜでしょうかね
人間の特性なんでしょう

クラスで子供がトンチンカンな事をしても「元気があっていいじゃない」
尋ねても黙ったままでいる子は「気品があって上品じゃない」

となるわけです、本当にそう思っております

翻ってプロは褒めません、例え上手に動作をこなしたとしても
「いやあ〜、まだまだ」「まだ速く動ける」等、満足させては
ならないのです、プロは満足すると、技術が停滞します
それは他者に仕事を取られて「おまんまの食い上げ」
になるのです、プロはいつ何時も気を抜いたらいけません、それは
競争の中に身を置いている人間の宿命なのです。

まだまだ練習が必要というのがプロに対してもっとも優しい言葉です

我が師、呂耀鉄師父の話

萬籟聲師父の練習は非常に厳しいものだったと呂耀鉄師父聞きました
例えば動作を見せる時は一回だけ見せて覚えられないければ
教えなかったそうです、非常に緊張感があったそうです、その
練功を26年続け晩年まで毎朝4時に起きて功夫をしていた
のです、多くの武術家に出会いましたが、本当に圧倒的な功夫でした
フランス、オーストラリア、日本で萬籟聲師父の高弟っと言っておられる
方もいますが呂耀鉄師父が偉大なところは長きに渡って練習に耐えた
その継続の力だったのです、そして26年後に正式に自然門を継承されました。

武術家の旬はおよそ60才から80才だとされておりちょうどその時の萬籟聲師父
から26年の長きに渡って学んだ呂耀鉄師父は稀有の幸運だったと思われます。

自称高弟とされている方は萬籟聲師父の晩年のワークショップにて
習った人か、もしくは晩年に習った方々で我々(呂派)自然門と風格が違っております
専門的に少し説明しますと、晩年は重心が高く、身体が開き気味になっています
従来、重心をもっとも低い位置に落としそれから体重移動や突きや蹴りをする
ことによって功夫をつけるのですが、高齢になった萬籟聲師父はあまり
重心を下げることが出来なかったと呂耀鉄師父はおっしゃっていました。
萬籟聲師父が60才ぐらいの時のスタンスは非常に低く安定していたということです
武術は元来、黙念師容で良き手本を頭に残してそれを真似ること
でありますので高名な萬籟聲師父を皆が盲目的に模写したのがわかります

下の萬籟聲師父の写真70年代と90年代は身体の置き方が変わって
います、これは良し悪しでなく年齢と共に剛拳から柔拳に変化したのですが
呂耀鉄師父はこの剛拳から柔拳の流れも学ばれております、また20歳ぐらい
だった呂耀鉄師父は60才以上の萬師父に足腰の強さで勝てなかったと言って
おられました。

さて呂耀鉄師父が長きに渡って偉大な武術家萬籟聲師父に学べたのか、それは
1966年からの十年間文化大革命が起こり、公で武術の練習はご法度になったのです
ところが呂耀鉄師父の家の隣が萬籟聲師父だったというが幸いし10才ぐらいから
武術が学べたとようです、そして独立に26年要したのは武術は当然として
東洋医学、漢方、長寿学、推拿、陰陽五行、道教なども学んだそうです、事実
自然門推拿医療所を開いておりました。

その師父の元、一番いい時期に学んだのは私の財産になっております
少しでも呂師父に近づけるよう精進したいと思います、また資料など出てくればお話いたします


万籟聲師父監修のもと武術学院が組織され
呂耀鉄が責任者となり多くの生徒を監督指導する
80年代


80年代


万籟聲父師の助手をする呂耀鉄師父(左)
90年代


萬籟聲師父と呂耀鉄師父の実践見本
90年代


秘剣 馬牙刺剣
2000年代


万籟聲父師の奥さんと息子さんと呂耀鉄師父
万籟聲の息子さんから「父にもっとも武術が近い人物」と賞賛を受ける

自然門武術 三代目 萬藾聲(マン ライセイ)


1920年頃

1902年湖北省 武漢市出身
北京で杜心五師父から自然門を学び
その他の武術家からも学ぶ
20歳頃(1922年頃) 北京農業大学に入学
26歳(1928年) 南京で行われた武術大会で学者や著名人から見出される 最初の著書、「武術集」を出版、将軍の階級を与えられた初の武術家
50歳(1952年)に福建省委員会に誘われ福建省に移住
84歳(1986年)に福建省武術学院が万師父監修のもと組織され 高弟の呂耀鉄(ロ ヨウテツ)が責任者となり多くの生徒を監督指導する。 晩年は精力的に講演や更新の育成に励む
91歳(1992年)で死去 *偉大な武術家で学者でもあり、道教と漢方薬の専門家以上でした 「武術教育を通して国を救う」というアイデアを持っていました。

十虎のうちの一人と呼ばれた伝説的な武術家
中野理男、宗 道臣(そう どうしん)日本少林寺拳法
宗さんが萬籟聲老師から学んだと伝えがありますが真相は不明です


1.湖北省生まれ→2.北京で自然門や多くの武術を学ぶ→
3.杜心五師父らと共に南京に移り→4.福建福州に招かれる

その他、萬藾聲が学んだ老師たち

劉百川老師(チョウ ヒャクセン)

少林寺羅漢神功と推拿(整形外科)を授ける


趙鑫洲老師(チョウ シンジャゥ)

六合拳の槍、形意拳、八卦掌
特に六合拳にすぐれていた

楊畏之老師(少林拳)
鄧芝霊老師(道功)
王顯齋老師(道功)
王禜標老師(通臂拳、劈挂拳)から
内功、外功、道功、薬功を学んだと伝えられています。

1970年代

1990年代

愛弟子、呂耀鉄

晩年は多く武術講習会を開く

自然門武術 二代目 杜心五(シャ シンウ)

清時代後期、湖南省の人(1869一1953) 6才頃から梅花拳、南拳、武当拳を学ぶ
13歳で四川省峨眉山にて徐矮师師父の元で自然門武術を学び
特に波脚(矮人歩)を授かる、ボディーガードの仕事などする

31歳(1900年)東京帝国農業大学へ留学
38歳(1907年)蒋介石のボディーガードになる
41歳(1911年)辛亥革命のち農林大臣に任命される
57歳(1927年)中央政府が南京に移り農林省で働く
63歳(1932年)湖南省にて第二回中国武術大会の委員メンバーになる
84歳(1953年)家族に見守られて生涯を全うする。

親分(蒋介石)がいきなり中国最高責任者になったというのが
生まれ持っての運があったように思います、武術の関係では
曽祖父に当たる方ですが、この東京に行った経緯など、そして
蒋介石のボディーガードをした話など波乱万丈の人生ですね
東京でお相撲さんを投げた話なども残っています


1.湖南省で生まれ→2.俄眉山で徐矮师師父の元で修行→3.東京で蒋介石のボディーガード
4.北京で農林大臣→5.南京に移る

陰陽五行の理

中国武術は陰陽五行思想が根底にありまして
最近演武をするということで久しぶりに型の練習に勤しみました。
応用拳の中に炮拳がありこの拳では割合多く出ます
五行で火、五臓で心臓に当たります(五行と五臓は結びついてると考える)
俗にいう五行相生の木火土金水で
木は火を生じて火は土(灰)を生んで土(山)から金が生まれ金から水がそして木に戻り

木=崩拳=肝臓
火=炮拳=心臓
土=横拳=脾臓
水=鑚拳=腎臓
金=劈拳=肺

相剋は金木土水火→金に返ります、じゃんけんを5つにしたといえばわかり良いでしょうか
金(斧)は木を切り木は土から養分を取り土は水を止め水は火を消す火は金(鉄)を溶かす
こんな感じであります

金=劈拳=肺
木=崩拳=肝臓
土=横拳=脾臓
火=炮拳=心臓
水=鑚拳=腎臓

火=炮拳の技には水=鑚拳の技で抑え込みやすいのです、また
心臓は脾臓を助けるがそればかりすると肺が虚になります

先週練習でたくさん打ったあとに心臓は炮拳と思いながら打ちます
心臓とか肺とかはわかりやすい方なのかもしれませんね

生年月日の陰陽五行は興味がありませんが、古代中国では色を五色、音を五音、料理を五味で
無限の組み合わせになったようです、武術といいますと五体で無限の組み合わせになります。

自然門武術創始者 徐矮子(ジョ ワイシ)

先週ないとフォーバーイコマにて「みんな大好き自然門武術」と銘打ってお話をしてきました。
マイナーな門派ですので、よく南拳とか南少林寺のといわれるのですが、源流は四川省
峨眉山でございます、北派で峨眉系が源流です

創始者は徐矮师ジョ ワイシ(Xu ai shi) 1840年頃の方で貴州省出身
その他はあまりわかっておりません、我が師父の四代目のところにいけば
ある程度わかるかもしれませんが、仙人みたいな人と曖昧に
伝わったりしていますが、わかっている範囲で

四川省 峨眉山にて修行、峨眉派系武術 幼いころから軟硬気功等を習練し
内外家、南北派の武術に精通していた。成人後は世間を渡り歩き
高名な武術家などから教えを受けたなその後山に隠遁し研鑽を重ね創始した。
また身体が非常に小さかったようです。

兄弟のいうところ「自然門」という名前は二代目が名付けたという
話もあるようです


1. 貴州省出身→ 2. 俄眉山で修行 自然門武術を創始する

仙人が住む山といわれる峨眉山

中国三大霊山 峨嵋山、五台山、天台山
中国四大仏教名山 峨眉山、五台山、九華山、普陀山

ここ四川省の峨眉山はヒマラヤの入り口ですのでインドから経由した武術が
元になったのかもわかりません、イスラム(回族)や道士が武術を伝えたかと思います
菩提達磨は四大仏教名山の峨嵋山通って嵩山少林寺へ向かったかもしれませんね
歴史ロマンはつきませんね

言葉

先日、役所にいきまして、クラスのチラシを渡します、一文に「障害者」とあります
役所のおばちゃんは今は「障がい者」と書くのですと、こちらは百も承知でございます
いろんな意見はございますが、実は以前、ある方に「障」の字の意味も
「間に立ちふさがってじゃまになる、じゃまをする」で良い意味ではなく
全部ひらがなで「しょうがい者」と書く必要がありますかと言われました。

言葉が変われば本質が変わるのでしょうか、そんなことはありません。
役所の人間は周りがしているから、上から言われたと程度でございましょう
こちらはいつも「障害者」と記入するときに自問自答しております

「障害は不便です。でも不幸ではありません」
“A handicap is inconvenient, is not a misfortune, though”
ヘレンケラーの言葉です

自然門武術の静坐

今週の日曜日4月1日から静坐を行います。
自然門武術(少林寺経由の北派)門派はこの静坐、瞑想があります。
先代、万籟声師父の著書の中にも詳しく説明があります。

禅宗の創始者の逹磨が528年頃に禅宗を嵩山少林寺で開いており
それが1200年頃日本に入ってきましたが、そもそも武術と禅は一つの
ものだったのが日本に来た時にはバラバラで入って来たようです
後年、沢庵和尚などが「剣禅一致」ととなえているのが証拠に
剣と禅と違うのもを合わせるということ、武術と禅の発生は同じ所だったのを
知らなかったのでしょう、日本の禅が世界の先端だと聞いておりましたが
坐禅をお寺に組みにいきましたら、身体の使い方など全く説明の
ないまま坐禅をいたしました、たぶん和尚も知らないのだろうと理解しました
また「現代坐禅講義」の中に「背筋を伸ばして」坐禅をしていたとあり
体系的な技術が残念ながら完全に分離してしまったのでしょう
坐禅は調身からですが、これがわからなければただただ苦痛なだけに
なります、武術の用法と同様に内面の話は後からで、まずは呼吸をする時の
身体の使い方から説明できればと思います。

*嵩山少林寺(北派武術の総本山)


万籟声師父の著書より

マインドフルネス坐禅会

昨日はマインドフルネス坐禅会というものに行ってきました。
大阪天満橋で行われましたが、起業家の人たちも
禅を好んで行っているのに少々驚かされましたが、ワタクシも
久しぶりに坐禅を20分x2の40分いたしました。

10年以上前にニューヨークのクイーンズMeadows Parkで
武術兄弟のペドロと4時間ぐらいした覚えがあります、ですが
もしかしたらもっと短かったか記憶が定かでありませんが
武術練習の時に一回どこまで坐禅が出来るか、そんなたわいも
ない話からだったと思います、1時間以上経つと全身が痺れてきて
2時間を過ぎると身体が軽くなり3時間をこえると心が空を
飛んでるような感じになりました、怪しいお薬はしておりませんよ、笑

ご存知のように日本武道(特に剣術)は禅宗と融合を果たし、「剣禅一致」
剣術の世界では坐禅も練習の一貫とみなす傾向であります
少林寺は禅宗の誕生の地でございます
他の門派は坐禅よりも立禅や歩禅を積極的に取り入れている感じです
八卦掌やまた太極拳など型自体が禅
だという方もおられます、このあたり中国現実主義で身体を鍛えながら
精神を鍛えるそんな思想が垣間見れます。

当時師父から今は立禅(站樁)や坐禅をせずに歩禅を徹底的に
するようにいわれました。自然門の歩禅は30分もすればふくらはぎが
痙攣してきます、これは若い時分しか出来ない、年を取ったら出来ないよっと
言われたのを思い出しました

今日は休みだったので2時間坐禅を組みましたが、心も身体もすっきり
いたしました、そろそろ坐禅や立禅に移行する時期なのかもしれません。