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我が師、呂耀鉄師父の話

萬籟聲師父の練習は非常に厳しいものだったと呂耀鉄師父聞きました
例えば動作を見せる時は一回だけ見せて覚えられないければ
教えなかったそうです、非常に緊張感があったそうです、その
練功を26年続け晩年まで毎朝4時に起きて功夫をしていた
のです、多くの武術家に出会いましたが、本当に圧倒的な功夫でした
フランス、オーストラリア、日本で萬籟聲師父の高弟っと言っておられる
方もいますが呂耀鉄師父が偉大なところは長きに渡って練習に耐えた
その継続の力だったのです、そして26年後に正式に自然門を継承されました。

武術家の旬はおよそ60才から80才だとされておりちょうどその時の萬籟聲師父
から26年の長きに渡って学んだ呂耀鉄師父は稀有の幸運だったと思われます。

自称高弟とされている方は萬籟聲師父の晩年のワークショップにて
習った人か、もしくは晩年に習った方々で我々(呂派)自然門と風格が違っております
専門的に少し説明しますと、晩年は重心が高く、身体が開き気味になっています
従来、重心をもっとも低い位置に落としそれから体重移動や突きや蹴りをする
ことによって功夫をつけるのですが、高齢になった萬籟聲師父はあまり
重心を下げることが出来なかったと呂耀鉄師父はおっしゃっていました。
萬籟聲師父が60才ぐらいの時のスタンスは非常に低く安定していたということです
武術は元来、黙念師容で良き手本を頭に残してそれを真似ること
でありますので高名な萬籟聲師父を皆が盲目的に模写したのがわかります

下の萬籟聲師父の写真70年代と90年代は身体の置き方が変わって
います、これは良し悪しでなく年齢と共に剛拳から柔拳に変化したのですが
呂耀鉄師父はこの剛拳から柔拳の流れも学ばれております、また20歳ぐらい
だった呂耀鉄師父は60才以上の萬師父に足腰の強さで勝てなかったと言って
おられました。

さて呂耀鉄師父が長きに渡って偉大な武術家萬籟聲師父に学べたのか、それは
1966年からの十年間文化大革命が起こり、公で武術の練習はご法度になったのです
ところが呂耀鉄師父の家の隣が萬籟聲師父だったというが幸いし10才ぐらいから
武術が学べたとようです、そして独立に26年要したのは武術は当然として
東洋医学、漢方、長寿学、推拿、陰陽五行、道教なども学んだそうです、事実
自然門推拿医療所を開いておりました。

その師父の元、一番いい時期に学んだのは私の財産になっております
少しでも呂師父に近づけるよう精進したいと思います、また資料など出てくればお話いたします


万籟聲師父監修のもと武術学院が組織され
呂耀鉄が責任者となり多くの生徒を監督指導する
80年代


80年代


万籟聲父師の助手をする呂耀鉄師父(左)
90年代


萬籟聲師父と呂耀鉄師父の実践見本
90年代


秘剣 馬牙刺剣
2000年代


万籟聲父師の奥さんと息子さんと呂耀鉄師父
万籟聲の息子さんから「父にもっとも武術が近い人物」と賞賛を受ける

自然門武術 四代目 呂耀鉄(ロ ヨウテツ)


80年代後半

1949年福建省 福州市出身
幼少から萬籟聲師父(バン ライセイ)26年間の 長きに渡って自然門武術を学ぶ
37歳(1986年)萬籟聲師父から正式に独立を許され 自然門武術館の設立
武術、東洋医学、漢方、長寿学、推拿、陰陽五行、道教など
(萬籟聲師父が唯一独立を許した人物)

37歳(同年)福建省武術学院責任者となり多くの生徒を監督指導する
37歳(同年)萬籟聲師父共に日本、台湾、中国の武術文化交流をする
41歳(1989年)福建省の伝統武術を代表して最上級部門で優勝
42歳(1990年)日本に招かれて六合拳の演武し賞賛される
45歳(1993年)中国、香港合同国際武術大会で金メダル5つ獲得
64歳(2013年)交通事故で亡くなる

* A級国際武術審判
* 福建省武術議会理事
* 福建省人体科学協会理事
* 福建省気功協会理事
* 自然門武術本部代表 正統四代目

呂耀鉄 設立
自然門武術館
萬籟聲 題

呂耀鉄師父以外にこの書を萬籟聲師父から受け賜った人物はいない


萬籟聲師父の代理で武術大学で生徒を指導
80年代後半


萬籟聲師父と呂耀鉄師父
80年代後半


呂耀鉄師父と私(林隆志)日本自然門武術
2009年3月


90年に日本に来られて演武をしていますが、福建福州市から
あまり離れられなかったようです。

自然門武術 三代目 萬藾聲(マン ライセイ)


1920年頃

1902年湖北省 武漢市出身
北京で杜心五師父から自然門を学び
その他の武術家からも学ぶ
20歳頃(1922年頃) 北京農業大学に入学
26歳(1928年) 南京で行われた武術大会で学者や著名人から見出される 最初の著書、「武術集」を出版、将軍の階級を与えられた初の武術家
50歳(1952年)に福建省委員会に誘われ福建省に移住
84歳(1986年)に福建省武術学院が万師父監修のもと組織され 高弟の呂耀鉄(ロ ヨウテツ)が責任者となり多くの生徒を監督指導する。 晩年は精力的に講演や更新の育成に励む
91歳(1992年)で死去 *偉大な武術家で学者でもあり、道教と漢方薬の専門家以上でした 「武術教育を通して国を救う」というアイデアを持っていました。

十虎のうちの一人と呼ばれた伝説的な武術家
中野理男、宗 道臣(そう どうしん)日本少林寺拳法
宗さんが萬籟聲老師から学んだと伝えがありますが真相は不明です


1.湖北省生まれ→2.北京で自然門や多くの武術を学ぶ→
3.杜心五師父らと共に南京に移り→4.福建福州に招かれる

その他、萬藾聲が学んだ老師たち

劉百川老師(チョウ ヒャクセン)

少林寺羅漢神功と推拿(整形外科)を授ける


趙鑫洲老師(チョウ シンジャゥ)

六合拳の槍、形意拳、八卦掌
特に六合拳にすぐれていた

楊畏之老師(少林拳)
鄧芝霊老師(道功)
王顯齋老師(道功)
王禜標老師(通臂拳、劈挂拳)から
内功、外功、道功、薬功を学んだと伝えられています。

1970年代

1990年代

愛弟子、呂耀鉄

晩年は多く武術講習会を開く

自然門武術 二代目 杜心五(シャ シンウ)

清時代後期、湖南省の人(1869一1953) 6才頃から梅花拳、南拳、武当拳を学ぶ
13歳で四川省峨眉山にて徐矮师師父の元で自然門武術を学び
特に波脚(矮人歩)を授かる、ボディーガードの仕事などする

31歳(1900年)東京帝国農業大学へ留学
38歳(1907年)蒋介石のボディーガードになる
41歳(1911年)辛亥革命のち農林大臣に任命される
57歳(1927年)中央政府が南京に移り農林省で働く
63歳(1932年)湖南省にて第二回中国武術大会の委員メンバーになる
84歳(1953年)家族に見守られて生涯を全うする。

親分(蒋介石)がいきなり中国最高責任者になったというのが
生まれ持っての運があったように思います、武術の関係では
曽祖父に当たる方ですが、この東京に行った経緯など、そして
蒋介石のボディーガードをした話など波乱万丈の人生ですね
東京でお相撲さんを投げた話なども残っています


1.湖南省で生まれ→2.俄眉山で徐矮师師父の元で修行→3.東京で蒋介石のボディーガード
4.北京で農林大臣→5.南京に移る

自然門武術創始者 徐矮子(ジョ ワイシ)

先週ないとフォーバーイコマにて「みんな大好き自然門武術」と銘打ってお話をしてきました。
マイナーな門派ですので、よく南拳とか南少林寺のといわれるのですが、源流は四川省
峨眉山でございます、北派で峨眉系が源流です

創始者は徐矮师ジョ ワイシ(Xu ai shi) 1840年頃の方で貴州省出身
その他はあまりわかっておりません、我が師父の四代目のところにいけば
ある程度わかるかもしれませんが、仙人みたいな人と曖昧に
伝わったりしていますが、わかっている範囲で

四川省 峨眉山にて修行、峨眉派系武術 幼いころから軟硬気功等を習練し
内外家、南北派の武術に精通していた。成人後は世間を渡り歩き
高名な武術家などから教えを受けたなその後山に隠遁し研鑽を重ね創始した。
また身体が非常に小さかったようです。

兄弟のいうところ「自然門」という名前は二代目が名付けたという
話もあるようです


1. 貴州省出身→ 2. 俄眉山で修行 自然門武術を創始する

仙人が住む山といわれる峨眉山

中国三大霊山 峨嵋山、五台山、天台山
中国四大仏教名山 峨眉山、五台山、九華山、普陀山

ここ四川省の峨眉山はヒマラヤの入り口ですのでインドから経由した武術が
元になったのかもわかりません、イスラム(回族)や道士が武術を伝えたかと思います
菩提達磨は四大仏教名山の峨嵋山通って嵩山少林寺へ向かったかもしれませんね
歴史ロマンはつきませんね

武者修行中と歓迎スパー

bike
「我的愛車、チャイナ一号」

2/6
朝5時40分おきで練習に向かいます。
身体はもう片チンバになりそうなぐらいパンパンです。
猛訓練の末、7時半に解放してもらい
何でも修理屋に武術兄弟と一緒に行ってもらい直して壊れたペダルを
直してもらいます、1元なり(およそ7円)
昼ごパンを食べてちょっと寝ますも、起きたら夕方で
ありました、師父のところに赴いて基礎練習の時間であります。
アイロンリングをこれでもかと訓練いたしまして
8時に山の廟に行って訓練です。
今日は一番古い武術兄弟が来ておりました。
達人であります、カマキリに似ているのでチャイナカマキリと名付けることに
しましょう、その息子もヒョロリとして弱そうなので雄カマキリと名付けましょう
練習後手荒いスパーが待ち受けておりました
新入りの手荒い歓迎なのです、望むところと行きたいところが
師父から重点的に教えらて、汗を出し切った出しがらのワタクシと対戦
であります、動かない身体を引きずって30分戦いますも
2日目にて「これは身体が持たんな」と確信した夜でした。
「じゃあ、明日も6時ね」と云うれてそれは堪忍して
8時にとお願いして夜はふけていきます。

続く………